赤松燎「白竜図」部分

 

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 昭和40年代に大岩甚之助一代記や、昭和50年代になると関西新聞社の連載小説の挿し絵などを描いた。またこの頃、当時太秦にあった大映の撮影所で、市川雷蔵(1931・昭和6年〜1969・昭和44年)に赤松を引き合わせたのが、赤松と親交のあった映画監督の池広一夫だった。こうして、昭和40年代頃から、役者に刺青を描くアルバイトをするようになった。

 

 雷蔵が私を仕事に使える様に使育したんだ。勝も俳優なら、画家の協力者の一人ぐらい祇園のさかり場でまく金で養え。苦労して、雷兄と考案した材料(刺青が、入浴シーンでも消えないよう工夫した絵具)で勝の仕事はできない。雷兄への義理がある。金もうけになるなら何でもと云う小生ではないわい。大映が無理を云うなら、大映をやめると云った。

 雷兄の仕事だけにして呉れ。雷兄の仕事の事なら、下駄の裏にもでも絵を書く。然し、雷兄以外の主役・俳優は断ると云った。雷兄はそれを聞いて、制作部の者に、赤松さんがどうしても承知してくれないのか、では私が頼むと云って、TELということになったわけだ。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)

 彼が死ぬる前、昭和43年秋も終わりの頃、小生の姓名判断をして呉れた。素晴らしい良い名前だ。55過ぎた時は、素晴しい人生があると云って・・・.。ほめて呉れた私の名前をじっと見つめると、彼を思い出す。彼は丁寧にかく数を調べて割出す、その真剣な姿を思い出します。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)

 最後の作品(昭和44年2月22日、『博徒一代血祭り不動』)も一緒、「赤松さん来年明けたら、もう一度入院して体を立て直してきます。秋頃には会いましょう。そしてもりもりやりますよ」と云って別れたのが、此の世の別れでした。「テアトロ 鏑矢の旗上る」も協力する覚悟でいたのに・・・あゝ何と云う悲しい事だ。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)