赤松燎「白竜図」部分

 

←クリック!「赤松燎の世界」

 

 昭和40年代に大岩甚之助一代記や、昭和50年代になると関西新聞社の連載小説の挿し絵などを描いた。またこの頃、当時太秦にあった大映の撮影所で、市川雷蔵(1931・昭和6年〜1969・昭和44年)に赤松を引き合わせたのが、赤松と親交のあった映画監督の池広一夫だった。こうして、昭和40年代頃から、役者に刺青を描くアルバイトをするようになった。

 

 大映の守衛さん、お茶くみの叔母さん迄が、小生に雷蔵さんのお葬式に行かれましたかと聞いた。「ハア参りました」と云うと、お茶くみの叔母さんが、「アナタと二人、肩を並べてセット行く雷蔵さんは、兄弟の様に仲が良かったですネ。後ろ姿を見てそう思っていました」と、云っていた。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)

 市川雷蔵との出会いは、赤松を全く新しい世界へと誘い、作品に刺青を登場させるようになった。赤松は、刺青のアルバイトをするようになって以降、刺青を入れた女を描くようになり、それまでとは、画風が大きく変わった。

 昭和41年、赤松は「画廊菊」でスケッチ展を開いた。

 スケッチ展には、同郷岡山県出身の大家、池田遥邨画伯も夫婦で駆け付けた。さらに、赤松は、市川雷蔵が展覧会場に来た時の様子を、追悼集のメモに次のように遺している。

 小生の素描展の時に、御夫婦、お嬢ちゃんと三人で来て下さった。

 土曜日の夕方だった。展覧会場の入り口の方で、入場者が居た時だった。びっくりして見ると、雷兄ご夫婦とひさえチャンが笑顔で立っている。わざわざ来て呉れたのだ。うれしそうに小生の前へ来て、手を握り、大盛況ですネと、一枚一枚丁寧に見て、小生のペン画に心を引かれ、買おうとした。田中日佐夫兄が説明役になって呉れて、一同ビックリ。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)