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略 歴

 昭和6年八月生れで、当年22歳。初め実父九団次の前名莚蔵を名乗り、16歳の時、大阪歌舞伎座で「中山七里」の桶屋の娘お花が初舞台。

 25年関西若手歌舞伎の第二回公演に「妹背山道行」の求女を好演して、一躍若手花形の一人となった。26年四月市川寿海の養子となり、同年6月八代目雷蔵を襲いだ。屋号増田屋。

 

人生は長い

                                            山口広一

 このあいだ中座の廊下で、久し振りに雷蔵に会った。相変らず新制高校の二年生みたような顔して笑っていた。

 頭はあまりいいほうではなさそうだが、あの新制高校の二年債なみの無邪気さは可愛い。時おり利いた風の口で小生意気なことをいったりするが、その小生意気の程度も、せいぜいお姉さま遊びの子供が、母親の口真似をやっている程度で、別に憎めない。

 寿海の養子になって莚蔵から雷蔵とかわっても、一向にかわり栄えするほど目立った役もつかず、目立った成績もあげず、ますでパチンコ屋の玉売りのように黙々とやっているところが気に入った。二十歳そこそこの青二才が、変に持ち上げられたりすると、鶴之助のような笑いものになる。そんなにアセらなくとも、人生はまだまだ長いのである。

 だが、それだからといって生活の何もかもを春風駘蕩でやられては困る。新制高校の二年生には、二年生だけの勉強はある。

 まず、今のうちに出来るだけ見聞を広くしておくこと、先輩の舞台も出来るだけ多く見学しておくこと、舞踊をもっと真剣に叩き込んでおくこと、義太夫のお稽古は絶対の必修科目であること。これでなお時間の余裕があれば、ボーカルの発声法ぐらい一つ知っておいても決して損にはならない。

 あのすっきりした柄、あの舞台冴えのする顔、それにあの調子のよさと、三拍子とも立派にそろっている。うまく行けば、大物になり得る雷蔵の可能性である。いつも眼の色を変えているようなコチコチの野心家は、僕の最も嫌いな人種だが、雷蔵は次の時代の大阪の海老蔵をねらって、さらに黙々と勉強・勉強でゆきたい。

 ああ、それからも一ついい忘れた。年に一回、レントゲンの胸部撮影だけは必ずやっておいてもらうこと。

◆山口広一(1902〜1979)。大阪市出身、昭和期の演劇評論家。大阪高商卒、大阪毎日新聞社入社、劇評を書き、定年後も寄稿する。上方歌舞伎を守る七人の会を企画、古典作品のアレンジをした。文楽協会、国立劇場各専門委員。著書に「大阪の芝居」「文楽の鑑賞」「延若芸談」「梅玉芸談」がある。-20世紀の人名事典-より