歌舞伎の世界

 

 雷蔵は1960年、『安珍と清姫』の撮影の頃、歌舞伎を題材にした作品に出演する理由をファン・クラブの会報で次のように述べています。

 「昔人形操りの劇(今の文楽)が盛んに行われ、やがて人形だけではあきたらなくなってきた頃、その義太夫の劇が歌舞伎の世界に持ちこまれ再び現代的な生命を取り戻した例があります。当時の歌舞伎は、現代の映画のように、大衆の中にあったのですが、いまやその歌舞伎もかつての人形操りのように古典の中に入ってしまって、その伝統ある芸術美もさることながら、現代の若い人たちには、そのままの形では共感を呼ことがむずかしくなってきました。しかし、その古典化した歌舞伎の中には多少のアレンジさえ施せば、立派に現代の若い人にアピールするようなすぐれたものは少なくありません。/ですから、かつて義太夫劇が舞台で再生したように、歌舞伎の名作の中から現代的な可能性を再検討して、映画のスクリーンで紹介するということは、私のように歌舞伎から映画に入った者の一人にとっては、一つの使命ではないかと思うからです」(市川雷蔵「遺稿集 − 思いめぐらせしことども」ノーベル書房編「侍・・・市川雷蔵その人と芸」−1970年所収)

名作歌舞伎面白ビデオ案内

 過去に対して「もしも」は禁物だというが、それでもなお、市川雷蔵は、「もしも」の影を二重にひいている。「もしも」若死にしなかったら、「もしも」歌舞伎の舞台に立っていたなら−。

 その「もしも」の嘆きを、ほんのわずかにせよ償ってくれるのは、たとえば、ビデオの『弁天小僧』である。養父の市川寿海がつきっきりで指導したという浜松屋のくだり、見あらわされてキッとした顔の美しさ、ストレートで爽やかなせりふの冴え、若い時の舞台に女形が多かった経歴がふしぎなほどに「をんな」性が薄い。この人によく付けられる形容を使えば「硬質」かつ「清潔」な弁天小僧である。それでいて町娘お半を手籠めにしかかるあたりでは不良小僧の鋭さがのぞく。先代鴈治郎が、黒幕とはいえ、つまらない敵役で出てくるのが驚きというか、ミモノというか。

 雷蔵の『切られ与三郎』は、義母に裏切られ、新内流しとして流れていった木更津で知り合い、荷風の「墨東綺譚」からのイタダキとおぼしきラブシーンを展開したお富にも、さらには旅先で知り合った芝居者の娘からも手ひどい裏切りをうける。「おいら、よっぽど甘く出来ているらしいな」−ひとりだけ裏切ることのなかった義理の妹お金とともに海に消えていくラスト。だが与三の求めた「永遠の女」は、ついに登場することのなかった、ほんとうの「母」だったのではなかろうか。それかあらぬか彼の傍らには、漱石の「坊ちゃん」にとって母親役だった清を思わせるばあやがおり、全篇には、彼が母から伝えられたとおぼしき手毬唄が流れつづける。^あわしまさまに願かけて」。妹を抱いて彼が向かう海は、いうまでもなく「母」の象徴、「海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる」と呼びかける詩人の言葉を待つまでもあるまい。そういえば、弁天もまた犯そうとした娘の「お母さま」という言葉に臆して手をひいてしまうのだ。

 雷蔵自身も義母である寿海夫人がなくなったとき「母と名のつく人が亡くなったのは、これで三人目」と呟やくような人だったらしい。

 弁天と与三郎の江戸の世界をほれぼれするようなセットと美術に支えられて再現してみせた伊藤大輔、黒く光るかわら屋根や路地の細道、筋違横町を走る御用提灯、いまや現実はもちろん、舞台や画面の虚構の領域からも失われてしまったような風物の中に、失われてしまった永遠の二枚目の白い顔がうかぶ。

 この二本に比較すると、『安珍と清姫』は、のどやかな中幕舞踊。美男美女を美しく撮り上げる。若尾文子の清姫が、ギリギリのところで娘の限界にとどまった熟した色気をみせる。砂漠のシーンは、ほとんど『モロッコ』や『情婦マノン』の世界であり、その前の蛇はほとんど「アハハ」の世界である。(佐藤俊一郎)

弁天小僧(58年)

河竹黙阿彌の世話物「青砥稿花紅彩晝(あおとぞうしはなのにしきえ)」(五幕六場)の映画化です。これは文久二年(1862年)三月。江戸市村座で初演され、別題「弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)」又は「白浪五人男」、通称「弁天小僧」と呼ばれている作品です。浜松屋店先の場で娘姿の弁天小僧が正体を見破られて七五調の名台詞「知らざア言って聞かせやしょう・・・」を言うところは名場面として知られています。

 監督は『忠治旅日記(三部作)』(27年)、『新版大岡政談(三部作)』(28年)など戦前の時代劇の傑作で知られる巨匠・伊藤大輔、脚本は伊藤監督と同じく戦前から活躍していた大御所・八尋不二です。雷蔵と伊藤監督は初めての顔合わせでしたが、原作の江戸情緒を生かしながら絶頂期を伺わせる優れた伊藤大輔映画となり、雷蔵主演の歌舞伎映画の最高作と言われています。

 

 

お嬢吉三(59年)

 基となっている歌舞伎作品は世話物「三人吉三郭初買(さんにんきちざくるわのはつかい)」(七幕十三場)で、これも河竹黙阿彌の作です。初演は万延元年(1860年)一月。江戸市村座で、別題は「三人吉三巴白波」、通称は「三人吉三」。

 映画化の脚本は、戦前は監督として活躍し、戦後は「座頭市」シリーズなどの脚本家として多数の作品がある犬塚稔。これを『化け猫御用だ』(58)でデビューしたばかり、これがまだ二作目だった田中徳三が監督しました。プログラム・ピクチャーが健在だった頃らしい明朗な娯楽時代劇となっています。

 

 

切られ与三郎(60)

 三世瀬川如皐が八世團十郎のために書いたとされる世話物「與話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」(九幕三十場)の映画化で、『弁天小僧』の伊藤大輔が監督と今回は脚本も担当しています。嘉永六年(1853年)三月、江戸中村座で初演され、通称「切られ与三郎」、又は「切られ与三」で知られるこの作品は、特に源氏店(映画では玄冶店)の場の「しがねえ恋の情けの仇」の名台詞が有名で、歌謡曲にまでなっている程です。

 映画では義妹お金を新たに創作していますが、彼女も含めて三人の女生との恋の悲しさは雷蔵でなければ出せないものでしょう。ラスト・シーンでお金の骸を抱いて入水してゆく与三郎の哀切な姿は比類ありません。

 

 

安珍と清姫(60)

 『炎上』(58)と共に雷蔵の剃髪姿が印象的なこの作品は、歌舞伎との関係が以上の三作とは少し異なります。

 和歌山県日高郡川辺町にある天台宗の寺、道成寺には<道成寺縁起>となっている安珍と清姫の物語が伝えられており、この伝説からまず能の「道成寺」が生れました。道成寺の鐘供養の日、清姫の亡霊が現れて舞を舞うというものです。

 そこから作られた歌舞伎の<道成寺物語>には「傾城道成寺」、「百千鳥娘道成寺」などがありますが、中でも「京鹿子娘道成寺」は<道成寺物>を完全に歌舞伎舞踊化した作品として<道成寺物>の代表作とされています。

 映画『安珍と清姫』は能や歌舞伎の<道成寺物>に直接取材したものではなく、その元となった<道成寺伝説>を映画化したものです。脚本は黒澤明の脚本チームの一員として知られるベテラン小国英雄、監督は戦前は俳優として『情熱の詩人啄木』(36)、『裸の町』(37)などの作品に出演し、監督となってからは『風の又三郎』(40)、『次郎物語』(41)などの名作がある島耕二です。

 なお歌舞伎「京鹿子娘道成寺」は所作物で、作詞・藤本斗文、作曲・初世杵屋彌三郎、振付・初世中村富十郎、初演は宝暦三年(1753年)三月、江戸中村座です。

 

 

女と三悪人(62)

 歌舞伎を題材にしていますが、井上梅次監督が十年来の企画を自ら脚本化したオリジナル作品です。『嵐を呼ぶ男』(57)など石原裕次郎主演のアクション映画で知られる井上監督は時代劇はこれが初めてでした。大映京都撮影所のスタッフを得て、プレスシートにもあるように、マルセル・カルネ監督のフランス映画『天井桟敷の人々』(44)を思わせる群像劇を作り上げています。

 この映画では先の映画『弁天小僧』とは違った雷蔵の『弁天小僧』が見られ、比較が興味深いところです。その他、映画の中で女座長の山本富士子が演じるのは、幡随院長兵衛と白井権八が出会う「霊験首我籬(れいげんそがのみがき)」、又は「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくいなづま)」(どちらも鶴屋南北作)の「鈴ガ森の場」、最後に踊るのは『安珍と清姫』の<道成寺>です。

 

  以上、歌舞伎を題材にとった五作品について大まかに説明しましたが、どの作品も日本映画が産業としてまだ盛んだった頃に作られたものばかりで、艶っぽい雷蔵の姿の他、今となっては簡単に真似のできない大掛かりなセットや多数のエキストラが見られる豊かな娯楽映画になっています。( 市川雷蔵名作選− 歌舞伎の世界 −解説より )

 

 

   

 

 

YaL.gif (1987 バイト)

Top page