溝口は明治31(1898)年5月16日、東京の本郷区湯島新花町に生れた江戸ツ子である。父の善太郎がお人好しで、家は次第に左前となって行き、それにつれて亀戸から浅草五姫町と・・・転々と居を移した。その石浜小学校時代の級友に川口松太郎がいた。小学校を卒えても家が貧しかったので、上の学校へは上げてもらえるわけではなかった。今戸橋の図案屋に奉公に行った。図案屋といっても、浴衣の図案をする家だった。だが、どうしても彼は本式の画家になりたかった。図案屋から暇をとると、黒田清輝が主宰する赤坂御池の葵橋洋画研究所にかよった。そのうち神戸又新日報で広告の図案をやる者を欲しがっていることを知って応募し、採用された。溝口十九歳の年だった。

  神戸の本社に一カ年ばかり社会部記者でいたが、望郷の念禁じがたく、退社。再び東京にまいもどり、しばらく遊んだのち、日活の岡島撮影所にずるずるべったりに入社する事になった。 大正9(1920)年の五月のことである。はじめ俳優志望だったが、監督助手に回された。二年ほどたった大正11(1922)年の四月、溝口はいち早く一本立ちになることができた。『愛に甦える日』が処女作である。

 その二十三の齢からきょうまで、溝口はずっと監督として仕事をしつづけて来た。その作品の数は百本にみたないかも知れないが、つねに第一級の監督として先頭をきって来た。その間、昭和11(1936)年には第一映画の『祇園の姉妹』で日本映画ベスト・テン第一位をとり、昭和15(1940)年には『残菊物語』、16(1941)年『浪花女』、17(1942)年『元禄忠臣蔵』、と三年つづいて文部大臣賞をもらったが、戦後には27(1952)年ヴェニス国際映画祭において、新東宝で作った『西鶴一代女』が銀獅子賞の栄に輝き、28(1953)年には『雨月物語』で同映画賞で最優秀外国映画賞、29(1949)年には『山椒大夫』の銀獅子賞と、これまた三年連続受賞の名誉をになっている。

  溝口の新しもの好きは有名である。いつでも新しい題材を求めてやまなかった。昭和の初期、プロレタリア芸術運動が盛んになるや、いち早く傾向映画『都会交響楽』を作った。明治ものが要求されはじめたとみるや、すぐ鏡花の『日本橋』をとりあげる。トーキー時代来ると知れば、藤原義江主演の『ふるさと』を撮り、戦争時代 になれば、『元禄忠臣蔵』に心血をそそぎ、戦後になれば『武蔵野夫人』を映画化し、戦後の倫理にメスを入れた。しょせんこれは江戸ッ子のあきっぽさだと溝口はいうがそれだけではないようである。

 家の都合で学問を身につける事のできなかった溝口は、だからいつもセイのびして生きてきた。それは血みどろの努力の一生だったともいえる。