大正11(1922)年『愛に甦える日』で監督生活のスタートを斬った彼が、作品的に認められたのは八作目に当る『霧の港』大正(1923)12年からだった。これは後年の彼の作風である情緒の描写の萌芽を思わせるもので、当時の外国映画の影響による表現派的手法をもちい、ほとんど字幕なしという純映画的なものであったが、文字どおり彼の出世作となったのは、日活京都に移ってからの『紙人形春の囁き』大正15(1925)年で、『狂恋の女師匠』大正15や、『日本橋』昭和4(1929)年とともに、日本固有のニュアンスを活かした風俗映画に輝きをみせた。また当時『東京行進曲』や、『都会交響曲』昭和4(1929)年など大作を出している。

 その時代の物として『唐人お吉』昭和5(1930)年もあるが、彼の名をいやが上にもたかめたのは傑作『滝の白井と』であり、ついで『神風連』昭和5(1930)年、『マリアのお雪』『祇園祭』昭和7(1932)年とつづき、明治時代に材をとるこれら風俗映画に、彼独特の情緒と詠嘆の美しさをみせ、彼の第一期の黄金時代を築いた。

 やがて日本映画界にもトーキー時代が来る。彼は『ふるさと』昭和5(1930)年でトーキーへの踏台とし、『浪花悲歌』『祇園の姉妹』昭和11(1936)年と不朽の名作を発表した。

『浪花━』は現実的な商都大阪の職業婦人を描き、『祇園━』では古都京都の二流芸者の生涯を深くえぐった。このリアリズムと情緒性を結びつけた作風は、やがて"芸道もの三部作"と呼ばれた『残菊物語』昭14(1939)年、『浪花女』昭和15(1940)年、『芸道一代男』昭和16(1941)年に最高潮に達した。

 だが、彼のこの道は戦争によって中断され、戦時中『元禄忠臣蔵』昭和17(1942)年、『団十郎三代記』昭和19(1944)年、『宮本武蔵』『名刀美女丸』昭和20(1945)年、と作ってはいるが、『元禄━』が武家生活の格調の美しさを出した以外、情緒を重んじる彼にとっては戦争というものは合致するはずはなく、不発作に終った。

 このスランプは戦後もつづき、『歌麿をめぐる五人の女』昭和21(1946)年、『女優須磨子の恋』昭和22(1947)年、『夜の女たち』『わが恋は燃えぬ』昭和23(1948)年、『雪夫人絵図』昭和25(1950)年、『お遊さま』『武蔵野夫人』昭和26(1951)年などの一作々々は、当時の話題にはなったが、彼の本領を発揮したものとはいいかねる。わずかに『夜の女たち』が、終戦直後の荒涼たる大阪風俗を描き出されて、わずかに彼の面目をたもった程度だった。

 しかし『西鶴一代女』昭和27(1952)年を発表したあたりから、彼は見事なカムバックぶりをみせはじめた。社会情勢がようやく彼の作風に合致しはじめたためであろうか。『雨月物語』『祇園囃子』昭和28(1953)年、『山椒大夫』『噂の女』『近松物語』昭和29(1954)年と、格調正しい作品を作り出した。彼の第三黄金期といえよう。

 ところが昨年あたりから、"芸術家であり、職人である"という気持が彼の心をしめはじめたものか、いままでの彼にはみられなかった妥協が見えはじめた。『楊貴妃』や『新・平家物語』や最後のの作『赤線地帯』がそれであるが、しかしそれらの作品においても、情緒性と真実性の結合をみせるきびしい格調はくずれていなかった。