僕にとって世界中の何よりも惜しい。誰が死んでもこんなに悲しいことはない。

 僕のいつわりのない実感は、溝口の死に対する理由なき不満、いや理由なき反抗だ。彼は近年仕事の上でも私生活の上でも、欠点の一つもなくなってしまった人間になっていた。この人生にああいう人間がいれば、どんな面から考えても役に立つことばかりだ。溝口が生きていて困ったり、不利益になったりする人間は一人もいないよ。これからもっともっと偉くなり、立派な仕事を残すに決っているよ。そういう完全な人間が、どうしてこんなに簡単に死んでしまわなければならぬのか・・・どうもね、人類というものが不合理で不公平だ。地上で役に立つ人間が役に立っている間は生きていられるように、神様に作りなおしてもらいたいという気がしてくるんだ。

 僕と彼との交友は、同じ土地で生れ同じように貧乏人の子として育ち、同じ小学校を出て、同じように苦労し、まったく一生涯同じ仕事の中で生きてきたといっていい。そして僕の友達の中であんなにケンカしたやつはないよ。どんなときにもきっとケンカしている。しかしね、仕事以外に一度もケンカしたことはない。

 彼は金銭で他人に迷惑をかけたことの一回もない人間だ。まぁね死んでしまえばいいところばかりみえて、公平を欠くのかもしれないが、僕はむしろ溝口の欠点を探し出そうとした。しかしないね。昔はあったよ。随分欠点も多かった。しかしそのどれも他人に迷惑を与えるものでなかった。


 溝口監督を失うことは単に大映のみならず、日本映画界の一大損失だ。永田社長も川口専務もこのよき映画界の指導者であり、また友人でもある溝口さんを失って落胆していることでしょう。

 永田社長は溝口さんが死去された日、故人がかねて信仰していた法華宗の総本山身延山に詣で、冥福を祈って来たようです。

 私の母と溝口さんがごく親しかったことから、私は子供のときか、溝口さんには随分可愛がってもらった。私の結婚式のときはメイン・テーブルに座っていただいたし、裏千家のお茶の会によく出かけてことなど、いまは悲しい思い出となってしまったが、そうした公私ともにつながる溝口さんを失ったことは、心惜しみてあまりあるし、胸にぽっかりアナがあいた感じだ。

 溝口さんの作品にはさびしさと真実があった。後進の中から溝口さんにつづく人が、一日も早く出ることを望みます。


  『月形半平太』にかかって忙しいのと、病状が好転したと聞いていたので安心して、つい見舞いにもいかなかったが、最後に会ったのは『大阪物語』の準備のため撮影所に現われたときだった。こんなことになるのだったら、無理をしても一度見舞いに行って、心おきなく話をするのだったが・・・。

 溝口君とのつき合いは古い。大正九年、日活向島に彼が助監督(当時はマネージャーといっていたが)に入って来たとき、僕は俳優をしていた。だからもう三十数年のつき合いになる。彼の方が二つ歳下だが、監督になったのは僕よりたしか早かった。

 ともかく惜しい人を失った。彼の老いてますます盛んだった製作欲と批評精神を僕も大いに学びたい。