純な芸術家的な魂をもっていた人だと思う。溝口さんは一時、田中絹代さんと結婚するのではないかとウワサされていたことがある。

 その頃ふらっと小津安二郎氏が京都へ遊びにきた。小津さんはどういう事情からかしらないが、いまだにずっと独身である。溝口さんがひやかし半分に、「小津さんそろそろ女房をもらったらどうだ」といった。すると小津さんは、「君は、いつ絹代さんと結婚するのだい」と逆襲した。溝口さんの顔がたちまち真赤になり、押し黙ってしまった。

 何か映画の試写の後、製作スタッフばかりの水入らずの小宴があった。溝口さんが「勧進帳」をやり初めた。それは溝口さんがご機嫌のときに必ず出るかくし芸で、「旅のころもは鈴懸の」から初めて、一段全部歌わないと気のすまないそうである。正直なところ節も声も余りいただけた代物ではなかった。みんないつの間に、床の間の前にでんとすわっ、て歌いつづけている溝口さんを置きっ放しにして、こっちで一かたまり、あっちで一かたまりと勝手に雑談を始め、盃を交換している。そんなとき、絹代さんひとりは溝口さんのかたわらにきちんと正座したまま、最後までじっと耳をかたむけていた。


 溝口健二監督のことを溝さんという愛称でよぶのは、ジャーナリストだけではない。もっとも面と向って"溝さんあんたは"というほど親しい人が、気難し傲然たる溝口さんに何人あったかは僕にはわからない。その溝口さんをサカナに・・・といっても、病状を心配しながら山田五十鈴さん、滝沢一、橋本正次氏らと盃をかたむけていたのが二十一日の夜も九時ごろだった。"いいというが本当は余りよくない。しかし今年中は・・・。"という話だったがその一日明けて、二十四日早朝に溝口さんの死をきこうとは・・・。わかりきったこととはいえ、あっといったことは事実である。

 二十一日の帰りの電車でも万一の用意に、やはり思い切って、原稿でも準備するか・・・と、漠然と考えていた答を暗に求められた感じだった。

 とにかく、僕と溝口監督の出会いは昭和二十三年であった。丁度『夜の女』の大阪ロケの最中で、当時下加茂にあった現京都映画の清水金一郎氏のおかげだった。というのは同氏には戦後第一回の映画人野球に当っても大変な世話になり、以来になにかと親しくしてもらっていたからで、清水さんは僕との約束を守り、溝口さんを神戸まで案内してこられたわけである。雨の日だった。主演の田中絹代さんも一しょにみえた。応接室の寒さが身にしみる夜だった。六甲の某所で食事をして、そのまま泊まることになった。

 溝口さんはあんまをとりながら、神戸時代のこと、映画のこと、色々と話がはずみ、結局だれも、一睡もせずに談笑、夜明け早くに溝口さん、田中さん、清水さん達は帰って行った。米やガソリンが不自由な時代で、大いに気をつかったのもなつかしい出会いの思い出である。田中さんに、「お休み」になったらというと、「先生がお休みになられてから」というのでまんじりともせず、全員が起きていたなんてウソみたいな話である。それ以来撮影所でよく親しく話合う機会があった。