桓武遷都以来千二百年、日本の歴史の全てが京都を中心に綴られた。そのためか一木一草にいたるまで古い都の懐かしさが漂っている。その昔、清盛が牛車に乗って都大路を行き、勤皇、佐幕が加茂の河原で血煙を上げたと思うと、まさに京都は時代映画のメッカである。

 最近はスクリーンプロセス設備による特殊撮影で、ロケイションの手間をはぶくことも多くなったが、やはり現地ロケに優る実感は出てない。そこで銀幕にうつる「時代映画の背景」をカメラとともにハンチングした。

 桜の春、紅葉の秋、天下の景観で知られる嵐山は、渡月橋の下流の松並木を、通称ふじわら堤(罧原堤)という。友禅流しの桂川を横にして、亭々たる松樹がおい茂り、時代劇につきものの街道筋としては、まことに格好の場所で“御家の大事”を伝える早馬、早駕籠、庶民の土下座のうちに奴を先頭にした大名行列が通るときのシーンなどに使われている。

 それにもう少し川下になると、背後に山が見られるため、赤城山の街道にもなり、製作日程、信州ロケの余裕のない場合など、よくここが利用されているが、このふじわら堤のほど近くに松竹、大映、東映の各スタジオが散在するため、鉢合わせすることもしばしば。そこで大映などふじわら堤に類似、しかも近距離ロケ地を求め、二十九年の『知らずの弥太郎』から岐阜の木曽川にロケバスを走らせている。

  京都市の右京区と西京区の境界を流れる桂川の左岸堤防の嵐山―松尾橋間は罧原堤(ふしはらつつみ)と呼ばれる。

 映画監督の溝口勝美氏(京都文化博物館嘱託)は「特に三条通との三差路から嵐山までは松並木が美しく時代劇のロケーションのメッカとなった」と懐かしそう。

 「何しろ撮影所(太秦)から30分とかからない気軽さがあるだけに戦後も大映、東映、松竹などが、殿様の参勤交代や三度笠を持ったやくざの道中など街道風景にひんぱんに利用した」。

 しかしあまりにも近場だったため、午後までの予定のロケが午前中で終了して、あてにしていた昼弁当が出ないケースが時々あって、スタッフらをがっかりさせる悲喜劇もあったという。

 現在は全部道路になり激しい交通で撮影どころでない。(Kyoto Shimbun 1999.8.27)

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(西日本スポーツ 10/27/56)